特別教本バックナンバー掲載 2014年夏期セミナー特別教本 《改訂版》 仏教思想の幸福の知恵 第4章 


第4章 敵対者に対する法則

 

1.敵に関する宗教思想・哲学

 

 本章では、人間関係の最大の苦しみの対象である「敵」「敵対者」を取り上げ、その苦しみをどう乗り越えることができるかについて考えたいと思う。

 

 まず、一般に、敵とはどういう意味かといえば、「自分に危害を加えようとしている相手、自分の利益の達成を阻害している相手、戦場における交戦相手、ゲームや競技における競争相手(ライバル)を指す。一方の利益が一方の損失になり、攻撃行動を惹起(じゃっき)する。また、自分の好みや考えと合わない人物や組織を指すこともある。対義語は味方、仲間」(ウィキペディアより引用)という意味になるだろう。

 

 そして、ある意味では、こうした意味を持つ言葉だからこそ、この意味と相反する趣旨のさまざまな敵に関した有名な言葉がある。たとえば、イエスが語ったとされる「汝の敵を愛せ」。日本では、「昨日の敵は今日の友」などか。

 そして、仏教の一部では、「敵は教師」という思想がある。次に、主に大乗仏教の教えにおいて、敵の苦しみをどのように乗り越えることが説かれているかについて述べたいと思う。

 

2.敵も自ら作り出すもの:縁起と空の教え

 

 敵とは、先ほど述べたように、自分に危害を加えようとしている相手、自分の利益の達成を阻害している相手である。だとすれば、見方を変えるならば、自分や自分の利益に対して執着が強ければ強いほど、他者が敵として認識されやすくなるということである。

 

 もちろん、自分の生命や財産や名誉などを含めて、何を奪われても構わないというほどに、自分や自分の利益にまったく執着がない人はブッダ以外には、ないしは現実には存在しないだろう。しかし、自分と自分の利益に対する執着が強いほど、多くの他者が敵に見えてくることは、重要な事実である。

 

 これは、敵という存在も、前章までに述べた「縁起」「空」の法則が当てはまるということである。縁起とは、条件によって生起するという意味であり、空は実体がないという意味であった。そして、その結論として、すべては、自分の心が作り出すもので、実体がないという世界観を紹介した。

 

 そして、敵という存在も、その人の自我執着の有無・強弱を条件として、現れるものだ。人によらずに、どんな人にも敵となる「絶対的な敵」などは存在しない。自らの自我執着を条件として生じている。その人の自我執着が変われば、敵と感じる人・感じない人が変わるし、敵が増えたり減ったりする。その意味で、敵には実体がないのである。

 

3.敵は教師:悟りのために貴重な敵対者の存在

 

 万人への愛・慈悲を説く大乗仏教では、考え方によっては、自分の父母の愛よりも、自分に(あだ)なす者たちの方がありがたい存在であると説く。それは、大乗仏教の最も大切実践の一つが、第3章で解説した「忍耐の実践」だからである。

 

 悟りを目指す上では、過剰な自我執着を乗り越える必要がある。そして、そのための訓練として、自我執着が強ければ強いほど、それから感じる苦しみが強くなる敵という存在は、自我執着を弱めるための貴重な機会を与えるのである。すなわち、修行者に、自我執着を弱めようという強い動機を与えるからである。

 こうして、敵が、悟りのための助力者、教師となる。これが、先ほど述べた「敵は教師」という大乗仏教の教えの一つの意味である。

 

 これに関連して、前章では、誹謗中傷に耐えることについて述べた。一般には、自分を誹謗・中傷する者は自分の敵になる。しかし、自我執着を弱め、不動の心と万人を愛する悟りの境地を得ようとする者には、敵が教師という、最もありがたい存在になるのである。

 

4.敵対者への感謝:仏道修行者の先達が残した言葉

 

 ある有名な仏道修行者の先達は、次のような趣旨の言葉を残している。

 

 「傷つけられてはじめて真実の教えとめぐりあうことができた。あだなすものたちよ、あなた方に感謝しよう。苦しみを味わってはじめて真実の教えとめぐりあうことができた。心に静寂を与えてくれた苦しみよ、あなた方に感謝しよう。そのものたちすべての行いが、かえって善根に転ずるように。」

 

 「傷つけられてはじめて、苦しみを味わってはじめて、真実の教えと巡り合うことができた」というのは、傷つけられるなどの苦しみがあってこそ、苦しみの根本的な原因である自我執着を捨てる悟りの道の大きな価値に気づくということだろう。

 そして、普通に考えれば、他を傷つけることは悪行であるが、それによって自分が悟り・解脱に向かうことができたのだから、その悪行が、かえってその者たちの善根(幸福の原因となるもの)になりますようにと祈っているのである。

 他の有名な仏道修行者も、次のような趣旨の言葉を語っている。

 

「敵対者の存在は瞑想を深め、中傷は、人を徳性へかりたてる鞭。敵対者は執着とうぬぼれから人を解き放つものであるから、なんとありがたい人、と感謝するべきだ」

 

 これは、苦しみを喜びに変え、怒りの対象を感謝と愛・恩返しの対象に変えている。まさに、一切の物事は、自分の心の持ち方・考え方が作り出すものであり、実体がないと説く仏教らしい考え方だ。敵は「悟りの教師」になるのだ。

 

5.自我執着の超越:自我から切り離された静まった意識

 

 自分の名誉欲などを含めて、過剰な自我執着を弱める実践をしていくと、誹謗中傷に動じない不動の心を得ることができる。そして、第1章で述べたが、普段「私」と呼んでいる自我を超えた「本当の自分の意識」が感じられてくる(目覚めてくる)。それは、静まった意識だ。先ほどの仏道修行の先達の言葉の中にある「静寂の心」である。

 

 批判されているのは「私」という自我だが、それとは異なる「本当の自分の意識」は、その影響を受けることがなく、静まっている。他者は、「私」を傷つけることができるが、「本当の自分の意識」は、傷つけることができない。

 

 こうした境地を得る実践の中には、前章までにも多少述べたが、「私」「私の心・体」などと呼ばれているものを「本当の自分ではない」と瞑想する修行、たとえば、無我・非我の瞑想や、四念処・()(うん)無我といった瞑想がある。

 

 ただし、そうした瞑想を行うだけではなかなか達成できない。そうした瞑想を学び、普段から行いつつ、実際に誹謗中傷された時に、その教えを思い起こして、それを生かすのである。

 

 他者に対する怒りに自分のエネルギーを使うのではなく、自我執着を超えるための思考・瞑想に集中するのである。すなわち、他人と戦うのではなく、自らの自我執着と戦うのである。真の敵は外側の他者ではなく、自らの内側に巣くっている。外の敵には実体がなく、真の敵は、自らの意識の中に巣くう自我執着だと考えるのである。

 

 こうして、実際に、現実という実戦の中で、教えを体得するのだ。それを達成した際に感じる、心の静寂、静けさは、場合によっては、何とも表現しがたいものである。達成する以前とは、あたかも別世界にいるかのように感じる場合もある。それまでやたらと騒がしく不快に感じていた世界が、静かなばかりか、神聖な世界にさえ、感じることもある。

 

6.好敵手:敵と映る協力者

 

 さて、悟りというものにあまり関心がない人でも、現実生活の中で、これまで敵と感じていた存在に対して、多少ものの見方を改めるならば、それが実際には自分の「助力者」であることがわかる場合が少なくない。その典型的なケースが「好敵手」という敵である。

 最初に、「敵」という言葉の意味を一般の資料から確認したが、その続きには、次のような解説がある。

 

「また、広く社会的関係、人間関係における競争相手についても敵(かたき)を用いるが、恋敵(こいがたき)、商売敵(しょうばいがたき)のように、「-がたき」と変形して複合語になることが多い。また、このような複合語は、好敵手(こうてきしゅ)に用いられる「敵」と同じく、単なる利益相反の相手、攻撃対象の相手とは限らず、切磋琢磨してゆく関係を指す場合にも用いられる。」

 

 こうして、私たちが敵と認識する存在の中には、実際には自分の利益に反する相手ではないものがある。それは、感情的にならずに、落ち着いて理性によって考えるならば、切磋琢磨していく関係であって、お互いを高め合っている関係のものである。

 実際には、こうした関係は、非常に多いと思う。しかし、実際には好敵手であるものが、過剰な自我執着によって、自分の利益に反する存在に映ってしまっていることが非常に多いのではないか。

 

 そして、過剰な自己愛、自我執着を弱めるならば、それまで敵だったものが、お互いを高め合う存在である一面に気づくことができる。そのぶん、明るく広く温かい心を得て、自分の人間関係・人生を明るくすることができる。

 

7.好敵手・切磋琢磨の大きな価値

 

 私たちにとって、友好的で協力的な関係、平易な言葉でいえば、仲良しの関係は心地よいものである。一方、対立的な関係は、緊張・ストレス・苦しみをもたらす面がある。しかし、実際に、長期的な意味で、自分たちの利益を考えた場合、たとえば自分たちが成長しようとした場合には、対立的な関係が一切なく、単純な仲良し関係だけでは、不可能に近いだろう。

 今日の人類社会を見れば、切磋琢磨の対立的な関係は、非常に重要な仕組みを形成している。民主政治における複数政党制による政党間の論争・選挙戦。真実の発見を目指す科学者の間で行われているさまざまな仮説をめぐる論争、経済発展・技術開発を促進する資本主義経済の競争原理、スポーツの振興をもたらす競技制度、真相に近づくために弁護側と検察官の対立的な討論を用いる裁判制度など。

 

 これはなぜかといえば、たとえば、人には皆、欠点と長所があるが、切磋琢磨は、対立する両者の欠点の解消と長所の増大をもたらす効果があるからだろう。

 

 まず、欠点に関していえば、対立的な関係では、相手に勝つために、お互いの欠点を攻撃しあう。それによって、互いが自分の欠点を認識して、それを改善・解消しようとする。

 しかし、対立的な関係が全くない場合は、お互いによく思われたいと考え、互いの欠点をあまり指摘しない、いわゆる馴れ合い・腐敗が生じる場合もある。ところが、人は、虚栄心によって、自分の欠点を自分で認識することは苦手な一面があって、他人に欠点を指摘してもらわないと気づけないことも多い。

 

 次に、長所に関しては、対立的な関係では、相手に勝つために、自分の長所を最大限に伸ばそうとする。また、相手の長所も盗まんばかりに学びとろうとする場合がある。

 しかし、対立関係が全くない場合は、こうした動機は生じないことも多い。人は、慢心を抱きやすく、ちょっとした長所が自分にあると、それにあぐらをかいてしまい、他人から学ぶことを怠る。それどころか、嫉妬心によって、他人に良いところがあっても、それを認めない場合さえある。

 

 そして、こうして互いの欠点をつぶしあったり、互いの長所を伸ばしあったり、学びあったりするという対立関係の中で、互いが成長していき、さらには、その中から、以前にはなかった、新しい何かが創造されていく場合がある。

 これは、弁証法の理論の中でいう「正・反・合」も似たような思想ではないかと思う。既存のものと、それと対立するものとのぶつかり合いの中で、両者を統合・昇華した第三のものが生み出されるプロセスである。

 

8.自我執着の強弱が、単なる敵か好敵手を決める

 

 しかし、前にも述べたように、相手が単なる敵に見えるか、お互いのための好敵手に見えるかは、自分の心、自我執着の強弱によって決まる。

 たとえば、その人が、自分や全体の成長ではなく、もっぱら自分が他人に勝つこと、自分が一番になること、自分が独占することを欲している場合は、好敵手は邪魔な存在である。そうした名誉・地位・権力などに関する欲望・独占欲が強い場合は、自分が一番ないし唯一の存在になる上で、好敵手という存在は邪魔である。邪魔という言葉の通り、その人には、相手が悪魔・敵に見える。

 

 しかし、そうした欲望が弱い場合には、互いの成長を促す切磋琢磨の相手だと見えることになる。邪魔・敵と見えれば憎しみさえ生じる。好敵手と見えれば感謝・尊重・愛が生じ、敵ではなく友になる。大きな違いである。まさに、敵か友かを分けるのは、自分の心ということがよくわかるケースである。

 

 そして、たいていの人は、この二つの心のどちらも持っているだろう。好敵手に対する妬みと尊重の双方である。そして、妬みは自我執着が強いほど強くなるが、それが強いと、場合によっては、相手の良い所を見たくないがために無理に否定して、学び取ることがなくなる。そして、「相手が第三者から受けている評価は不当に高すぎ、自分の評価は不当に低すぎる」と主張する場合もある。

 

 独占欲や嫉妬心といった自我執着の本質には、ある意味で、本質的に価値があるものがよくわかっていない無知があるように思われる。皆が向上・成長していくことではなくて、自分が他に勝ったり、一番になったり、独占できたりすれば、幸福になれるというのは、本来は、浅はかな考えであろう。

 そして、その背景には、怠惰とか、努力を嫌がる心があるだろう。そのあたりをまとめると、前の章にも書いたが、人には、「自分さえ幸福になればいい」とか、「自分が早く楽に幸福になりたい」といった無智があるのだろう。

 

 一方、前に述べたが、真の幸福とは、自分だけが得るようなものではなく、皆と共に、長く努力を続けた結果として得ることができるものだろう。その努力の中に、他との切磋琢磨が含まれると思う。

 

9.協調関係と対立関係のバランス

 

 結論からいえば、個々人や人類全体の幸福と成長は、協調的な関係と対立的な関係のバランスによって、最もよく実現されるのではないかと思う。

 

 それは、人を育てる場合と同じで、優しさと厳しさのバランスである。心理学でいうところの女性原理と男性原理である。子どもは、親が優しいだけでは、成長・進歩できず、自力で生きる力を獲得できない。しかし、厳しさだけでは、なかなかついていけないし、生きていくことさえ難しいかもしれない。この男性原理と女性原理に関しては、別の特別教本に詳説したので、参照されたい。

 

 この意味で、全く対立関係がないこと、切磋琢磨する好敵手がいないことは、恐ろしいことである。短期的には心地よいかもしれないが、それは堕落の道であり、長期的には、たるんだ心身によって、非常に苦しむことになる。

 

10.互いへの尊重・感謝を背景とした切磋琢磨

 

 こうして、対立的な関係が、互いを高めあう、成長させあう面がある。さらに、これを対立的関係にある両者が自覚し、対立しながらも、本質的には、互いの価値を認め、尊重・感謝しあっているケースもある。

 たとえば、優れたスポーツ選手が、「自分は負けたが、自分をまかした相手選手のような優れた存在がいることで、自分たち全体のレベルが向上した」という趣旨の発言をすることがある。

 そして、この互いを高め合い、互いの存在に感謝・尊重の心を持つことができる対立的な関係は、それを磨き上げるならば、最終的には、一種の全体への愛、博愛、慈悲にまで昇華できる可能性があるのではないかと思う。

 

 今現在の人類社会は、ソ連などの共産主義が失敗に終わって、市場原理主義と呼ばれる競争原理が強まった。その結果として、日本などの先進国の資本主義経済では、貧富の格差・社会の分裂などを含めた、競争の弊害がいわれることが少なくない。

 しかし、資本主義の本来の趣旨は、勝って幸福になる者と負けて不幸になる者を選別するための仕組みではなく、全体の生活水準の向上のために、競争原理という手段があるとも解釈することができるだろう。

 

 今後は、その弊害が修正されるとともに、時間はかかるだろうが、より進化した資本主義、資本主義の理想の形態が、将来生み出されればと思う。それは、たとえば、皆が、全体の幸福・向上を目的とし、その手段としての切磋琢磨の競争システムがあるという認識・理解を共有しており、それを支える具体的な教育・経済・政治・福祉などのシステムがある社会である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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